杉原あやの

2017年1月18日3 分

第3回 テツドク レポート

昨年12/17(土) に第三回テツドク『愛するということ』を開催いたしました。

テキスト:『愛するということ』エーリッヒ・フロム著 鈴木晶訳 紀伊国屋書店出版 1991

範囲:2章愛の理論 

参加者は、4名で比較的少数でしたが、深い議論をすることができました。

以下に、参加者の意見をまとめました。

 一つの疑問は、「自分の役に立たないものを愛する時に愛は開花する」(p.79)という箇所に対して、果たして人は、本当に自分の役に立たないものを愛することなどできるのだろうか、というものです。

 これに対し、同じく(p.79)以下の部分にその答えがあるのではないか、という意見がありました。

「無力なものに対して同情の念を抱いたとき、人は兄弟に対する愛を育み始める。また、自分自身を愛することは、助けを必要としている不安定で脆弱な人間を愛することでもある。同情には、理解と同一化の要素が含まれている。」

 まず、自分自身が無力であり、助けを必要としている不安定で脆弱な人間であるということを前提とします。そのような存在である自分自身への視線があるとき、自分と同じように無力な存在へ向けられる視線はまさに同情です。ですから、自分を愛することと、無力な他人を愛することは同じなので、自分を愛することが、自分の役に立たないものを愛せる根拠なのではないかと、疑問に対して指摘がなされました。

 また、次のような考えも出てまいりました。正しい愛について語るためにフロムは、間違った愛の形として複数の様相を記述していますが、それらは、何かに精神的な依存をしていたり、自分の欲望などから距離を置くことができないといったものです。

 例:成長した子供が自分から離れていることを望むことができないために、いつまでたっても子供を庇護し続けようとする母親。

 例:人助けのように見えて、自分の存在を肯定することが隠れた目的になっている。自分の存在の意味を他人に依存する。(この例は議論の中で出てきました。)

 こうしたケースでは、満たされなさを満たすために他者と関係しているように感じます。しかし、存在の根底から満たされていて、幸福であり続けられる人などほとんどいないのが実情ではないでしょうか。欠け目を抱える私たちはどうすれば間違った態度ではなく、自律した、成熟した人間となり、正しく人と愛し合えるのでしょうか。

 冒頭の疑問への指摘を思い返して見ると、他者への愛は、自分自身への愛が根拠になっていました。しかし、そもそも自分自身への愛も簡単ではありません。自分の力で(他人を利用せず)自分の存在を肯定してゆく、ということはいかにして可能なのでしょうか。この点について、フロムは本書の中で述べていないのではないかという指摘がありました。

次回は、1/28日(土)夜7時から、Tetugakuyaにて、

「異性愛」(P.85〜)、「神への愛」(P.100〜)について議論したいと思います。

皆様のご参加をお待ちしております。
 

 

 
参加についてのご質問やお問い合わせはtetugakuya@gmail.comまで。

#読書会

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