• すぎはら

レポート:5月26日第12回 哲学読書会『中動態の世界 意志と責任の考古学』3章を読む


この哲学の読書会に、毎回10名前後の方が集まってくださることに、主催者として感激しています。

そして、この難解な本に果敢に向き合おうとされる皆さんの姿勢に、いつも感動してしまいます。

特別な専門的な知識があるからではなく、哲学に触れた経験があるからではなく、積極的に興味を持って知ろうとなさる参加者の皆さんの姿勢に、主催者自身が多くの気づきを与えられています。 ご参加くださった皆様、ありがとうございました。

3章は、2章よりもさらに、「能動態・受動態・中動態」について踏み込んだ分析がされていました。

 現代の私たちが持っている先入観がどのようなものであるか、そして、その誤った先入観がどのように作られて来たのか、過去の専門家たちがどのような誤った解釈をしたのか、また、正しくはどう解釈すべきかが、述べられていたと思います。

なんとか理解しようと試みても、私たちが繰り返し日本語で読む「中動」という漢字にも誤魔化されてしまう。(中間を意味しないのに・・・)

馴染みきった先入観が常に邪魔をするので、能動態・受動態・中動態が正しくは何であるのか、こんがらがってしまう。 参加された皆さんの混乱ぶりも、対話の中で見受けられました。

「う〜ん。難しいなぁ・・・。」「いや、この本は難しいよ。」と口々にみんなで頭を抱えました。

言語の規則を意識し、整理しようとすることの困難さについては何度も、國分さんも書かれています。むしろこの困難さ(自分たちの認識の枠組みを超越できないこと)が重要なのかもしれませんね。

 文法を論じるということは、自分たちが従っているにもかかわらず、完全に意識することができない、そのような不思議な何かを相手にするということである。

 ならば、本稿の課題にはさらなる困難が見出せよう。中動態を論じるということは、かつてある人々がそれに従ってはいたが、もちろん完全には意識しておらず、あるときから、一部の哲学者や文法家がそれを意識しようと試みたがうまくいかず、またその規則そのものも変化していってしまった、そのようなものを論じることだからである。(p72)

現代の私たちに馴染み深いのは、能動態(する)と受動態(される)の対立です。

しかし、この自分たちの認識の枠組みを一旦置いておかなければならない。

これが簡単ではないから、こんがらがってしまう。

読書会に集った参加者の皆さんが一同にして熱心に頭を悩ませながら、理解を進めようとするのも、また哲学の読書会の醍醐味と思える回でした。

文責Sugihara

まず最初に能動態と中動態があり、受動態は後から派生してきたものだ。

中動態という言葉に騙されてはいけない。中動態は、中間的なものではない。 歴史的な流れでは、後から派生してきた受動態が地位を向上させ、中動態を表舞台から追いやってしまった。

3章まとめ

中動態が何かを知るためには、かつて中動態を用いていた人々の認識に、私たちが近づかなければならない。自分たちが馴染んでいる認識を超越しなければならないのだ。多くの過去の専門家はこれを成功していないが、バンヴェニストについてはそこをクリアしているということで度々登場した。

当時、中動態は、能動態との対立において意味を確定していた。

能動態も、また中動態との対立において意味を持ってたということだ。

中動態だけでなく、能動態についても再定義が必要になってくる。

同じ能動であっても、

中動態と対立して意味を持つ時の「能動」

受動と対立して意味を持つ時の「能動」は同じ意味を持たない。

86~87頁では、中動態しか持たない動詞と、能動態しか持たない動詞を集めている。

ここから、両者を比較検討し、両者を定義しようと試みる。

すると、両者には「主語と過程との関係」にかかわる区別があることがわかる。

<能動>・・・動詞は主語から出発して主語の外で完遂する過程を示す

「食べる」「飲む」「行く」「流れる」「在る(存在する)」「生きる」など

主語が指し示す動作は、言葉の発せられた先(聞き手)のあずかり知らぬところに及ぶので、その意味で動作が主語の占めている場所の外で完結する事を含意している。

<中動>・・・・動詞は主語がその座となるような過程を表している。

「出来上がる」「欲する」「惚れ込む」「希望する」「畏敬の念を抱く」「生まれる」「眠る」「想像する」「成長する」など

主語は、その過程の行為者であって、同時にその中心である。主語(主体)は、主語の中で成し遂げられる何事かを成し遂げる。

そして、その主語は、まさしく自らがその動作主(agent)である過程の内部にいる。


私たちは、今まで、能動(する)と受動(される)の対立で、能動に対し「主体的」というイメージを持ってきた。また、そこに意志の存在を強く想起させた。

しかし、こうして能動(主語の外)と中動(主語の内)の対立から捉えなおした能動は、「主体性」というイメージとはかけ離れている。意志が前景化しない。

かつて、能動態と中動態の対立があった時代では、行動力の原動力として現代の私たちが考える「意志」については認識されていなかったのだ。 4章へ続く。

(もし、このまとめに誤りがあれば、訂正を歓迎します。)

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