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執筆者の写真杉原あやの

レポート:9月15日 哲学読書会『中動態の世界 意思と責任の考古学』6章を読む


レポート:9月15日 哲学読書会『中動態の世界 意思と責任の考古学』6章を読む

哲学読書会『中動態の世界 意思と責任の考古学』6章を読む回にご参加くださった7名の皆さま、ありがとうございます。

6章をより深く解釈できるよう努めつつ、6章の言語の歴史を追いながら、参加者の皆さんの口を介して現れて来る様々な意見や表現がとても興味深く楽しい回でした。

参加者の間で、生じた対話の中で非常に面白かったのは、「分離」という表現でした。

それは6章本文に中にはなかった言葉でしたが、今回の対話の時間の中で始終HOTなワードとして交わされました。

●赤ちゃんに自我が生まれるということは、1人称と2人称を生じさせる。そこで、自分と他者との分離が行われるのではないか。行為者が誰なのかを特定して行く言語というのは、ある意味では、人と人(あるいは何かの概念を細かく)分離して行くということなのではないか。

●分離は、ある種の孤独さを生む。

●中動態のうちでは、自然と人間との一体感があったけれども、そこから分離があったのではないか。

●中動態を説明する時に、「自然の勢い」という表現のなされ方がとても日本人らしく情緒を感じます。決してバンヴェニストからは出てこなかった表現ではないだろうか。

●中動態について考える上で、自然(世界?)のなかに在る私たちという感覚が連想され、そこから、日本人の宗教観(アニミズム)について話が及びました。ヨーロッパの方は歴史的に民族の移動や争いや交わりが激しく危機的な状況もあり、活発な議論と何かを体系立てて行くために、言語はより複雑化されざるを得ず、それは「分離」を極めさせたのではないか。

●猫は、能動と中動のパースペクティブで世界を見ているのだろうか?トカゲのみる世界と猫の見る世界は違うと思われる。

●猫の話もいいけれど・・・。この社会には様々な問題が溢れている。抽象的な議論もいいけれど、この時間に、「中動態」をもっと現代の社会問題に繋げて考える対話が生じないだろうか・・・。

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