1/28 に第4回テツドク『愛するということ』を開催いたしました。
参加者5名により、部分的な輪読と対話を合わせて行いました。
テキスト:『愛するということ』エーリッヒ・フロム著 鈴木晶訳 紀伊国屋書店出版 1991
最初に「異性愛」の箇所について輪読を行い、その後、文章の意味でよくわからない部分について意見がありました。
「たしかに異性愛は排他的である。(略)異性愛は、性的融合、すなわち人生のすべての面において全面的に関わりあうという意味では、他の人にたいする愛を排除するが、深い兄弟愛を排除することはできない。」(p89)
異性愛について排他的であり、かつ兄弟愛を排除できないと語るならば、一見すると文脈上矛盾しています。この箇所を巡り、参加者から次のような解釈や意見が語られました。
・ フロムが少し前の箇所(p89)で書いているように、人生のすべての面で関わると言う点では、対象は限定されるが、その性的融合の相手の「存在の本質」と関わり合うならば、人間は皆、存在の「本質」においては同じであるから、相手を通して、全人類を愛することに繋がっている。
・ フロムは、今まで様々な無限定な対象に向かう愛の形について述べてきたので、異性愛についても、そのうちの一つとして語ろうとする基本的な方針を持っている。この基本的な方針のもとで、異性愛の排他性を主張すれば確かに矛盾を招く。しかし、フロムの本意は、あくまでも異性愛が排他的なものと誤解されがちであることを指摘することにあり、従って矛盾はない。
・異性愛をその他と同じような普遍的な愛と同列に語ろうとするならば、異性愛の燃えるような情熱的な感情や、異性愛特有の経験を軽視しているのではないか。
次に「神への愛」の箇所について部分的に輪読を行い、その後、思い思いに参加者が語り合いました。
この箇所では、人類の宗教的な進化の歩みと人間一個人の成熟過程が類似していることについて述べられているようです。以下に本文の内容をまとめてみます。
母性的な神
無条件に全ての人を平等に愛する。無条件がゆえにそれをコントロールすることもできず、私たちが良いことをしようが、悪いことをしようが、その愛を獲得するためにどのような影響も与えることはできない。
父親的な神
要求し、規則や掟をつくる。父親が子供を愛するかどうかは、子供が父親の要求に従うかどうかにかかっている。そういう意味では、父親の愛は、努力によって獲得可能である。
さらなる発達段階
神は人間であることや母親であること、父親であることをやめ、様々な現象の背後にある統一の原理の象徴になる。神とは、真実・愛・正義そのものを象徴すると考える。
人が父親的な神を愛する発達段階では、自分の人間としての限界や、自分の無知無力を自分で認めるだけの客観性を身につけておらず、自分を救い、自分を罰してくれる父親を必要とする、幼児的な段階を脱していない。
多くの人にとって、神を信仰することが助けてくれる父親を信じるという子供っぽい幻想である。
その逆に、神に対して何も求めず、自分の限界を知るだけの謙虚さを身につけており、自分が神について何も知らないと承知している人にとって、神は、精神世界、愛、真実、正義の象徴であり、その人はこれらの原理を愛する。すなわち、真理について思索し、身をもって愛と正義を生きようとする。
この箇所に対する参加者たちの対話の内容を部分的にご紹介いたします。
・ フロムの「神への愛」という言葉の表現は、「宗教への信仰」と同意義だと考えて良いのだろうか。
・ 神への愛(信仰と言い換えても良いのではないか)の発達段階で、精神世界・真実・愛・正義という一般的で普遍的な原理へと昇華されたものは、もはや宗教と呼べないのではないか。
・ 一般的で普遍的な原理へと昇華されて、神が世俗化した形になっている。
・ フロムは、神の父性や母性への信仰は幼児的だと述べるが、依然として人間にとって、全てを包み込む神の許しや愛、また厳しく自分を叱ってくれる神は、必要なのではないか。無条件の愛と許しや神の持つ厳格さを、人間が担うことができないのだから。
・ フロムは、現代の市民社会の中で、より良い社会を作っていくために、個々人の新しい道徳的な根拠として全ての人と共有できる「愛」(既存の宗教や慣習ではなく)を提示したいのではないか。 さて、最後になりましたが、次回のお知らせです。
次回は、2月25日(土)19時からのスタートです。
テキスト:『愛するということ』エーリッヒ・フロム著 鈴木晶訳 紀伊国屋書店出版 1991
「神への愛」の箇所の途中p111から始めます。
少し難しい哲学用語や神学的な内容が含まれてまいりますので、ゆっくりと進めたいと思います。 参加費は、おひとり様1,000円フリードリンク付きです。
ご参加おまちしております。
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