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第7回テツドクレポート


第7回目の読書会では、5名の参加者と共に部分的な輪読と対話を合わせて行いました。

テキスト:『愛するということ』エーリッヒ・フロム著 鈴木晶訳 紀伊国屋書店出版 1991

「第3章 愛と現代社会におけるその崩壊」 140頁左から6行目の「フロイトの思想は」からスタート 範囲の箇所では、フロイトとH.Sサリヴァンの話が出てまいりました。

話題1. この箇所で語られているフロイトとサリヴァンの考えの違いを大まかにつかもう。

フロイト

・欲望に蓋をしていた禁欲のヴィクトリア時代から、「性」の解放。

・互いの性的満足が愛情関係や結婚生活の土台であるという考え方が流行した。

・欲望を満たすということが人間の幸せにつながるという考え方は、ちょうど資本主義の流れにも沿っている。(資本主義=欲望を求めることで発達する)

サリヴァン

・恋人同士や結婚というチームを「敵意に満ちて疎外された世界に対して結束している二人」として見る。→「二倍になった利己主義」

・サリヴァンによる愛の説明は、二十世紀の、疎外されて商品化された人間の経験を語っている。(P141)

参加者の意見:

・二人が共にいることで、協力してより利益を得やすくなる。利益を得るための協力体制が現代の愛の形。そしてそれをサリヴァンは皮肉を交えながら、克服すべき愛の形として語っている。

・利益を求める愛は、愛ではないとフロムは考えるだろう。

・愛し合った二人が共にいるようで、結局のところ、利己主義が二倍になったに過ぎない。

話題2. では、欲望を満たすことや見返りを求めることが「愛」ではないとフロムが考えるならば、フロムはヴィクトリア時代のような禁欲の時代のことをどう考えるのだろう。良いと考えるだろうか。

参加者の意見:

・フロムは、特定の権威や宗教からも独立した普遍的な「愛」を規範にしようという考えだったと思う。ヴィクトリア時代の禁欲は、宗教からくるものだから、ヴィクトリア時代の方がより良い愛の能力があったとは言わないのではないか。

さてP.142から次のような文章が続きます。

 神経症的な愛を生む基本条件は、「恋人たち」の一方あるいは両方が、親の像への執着を捨てきれず、かつて父親あるいは母親に向けていた感情・期待・恐れを、大人になってから愛する人に転移することである。

話題3. 「神経症的な愛」と言われているけれども、程度の差はあれどほとんどの人がそうした傾向を持っている