
6月23日(土)第13回哲学読書会『中動態の世界 意志と責任の考古学』4章を読む

この日は、全14名での読書会となりました。
4章を扱う今回から、初めてご参加くださった方も何人もいらっしゃいました。
1章から3章までの内容について何が書かれていたのかをおさらいすると、その内容だけで1、2時間経ってしまいそうですので、おさらいする時間はとっていません。
そのため、初めて参加される方は、突然の4章からの内容に「難しい!やっぱり哲学は自分には縁がない!」と思われるのでは・・・と主催者としては少々気になっておりました。 ところが、終わった後、「難しかったけれど、面白かった!」というお声が聞こえてきてきました。大変嬉しかったです。 (お申し込みの際、「事前に本書全体の導入である1章だけでもぜひ読んできてください、その方がきっと当日楽しんで頂けますよ。」とお願いはしています。) また、哲学的に思索しようとすると、話題が果てし無く飛んでいってしまう可能性を常に秘めていると思います。
もちろん、それは悪いこととは言えないけれど、最初の話が何であったのかが分からなくなる、ということもしばしば。
しかし、参加者の中から、丁度今行われている議論を整理してくれる人が現れると、議論の質がぐっと深まってきます。
さて読書会では、何が焦点になったのか。
今回の読書会での主な論点は、「言語と思考の関係性」とは何か、そして、國分さんの分析によるバンヴェニストに対するデリダの批判だ。
ーアリストテレスのカテゴリー論ー
4章では、2章で登場したアリストテレスのカテゴリー論(p44)
が再登場した。
カテゴリー論とは、「私たちが物事を認識し語ることができるようになるための基本的な枠組み」のことだ。 言語学者バンヴェニストは、「経験を分類するための普遍的な枠組みとして提示されているこれらの項目は、もしかしたら、アリストテレス自身が話していたギリシア語という言語の文法をそのまま反映したものかもしれない」(p45)と仮説を立てた。