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執筆者の写真杉原あやの

8月18日(土)第14回哲学読書会『中動態の世界 意志と責任の考古学』5章を読む


読書会にご参加くださった皆さま、また、レポートを担当してくださった方、ありがとうございます。

5章では、「意志」の概念について、たいへんすぐれた定義(p137)づけを行なっている例として、アーレントが紹介されました。

アーレントの意志の概念が正しいものと仮定すると、逆説的に、意志の存在を主張することが難しいのではないかと、国分さんの指摘がなされています。 そういう意味では、アーレントの意志の定義を正しいものとして受け入れることで、むしろ本テキストの主題でもある、意志の存在の怪しさ、というものを浮かび上がらせることができるということでしょう。

ここは國分さんがアーレントの概念を借用した上で「意志」をどういうものとして考えるのかが述べられている重要な箇所だと思いました。(p.123〜アーレントの意志論)

「意志」というのは、本テキストのタイトルにもなっているわけです。

少し断片的になりすみません。

少々飛ばしましてフーコーの話へ↓

中動態についての一つの補助線として、フーコーの議論も紹介されました。


フーコーは、中動態について語っているわけではないと考えられる(P.151)が、フーコーのこの議論は、國分さんの主張したい中動態に当てはまる人間の行為をうまく描きだしているようです。

フーコーが中動態という言葉を用いずとも、能動と中動の対立を思考していたのではないか、と考えるならば、第4章で國分さんが主張していたように「言語が思考を直接的に規定しているわけではない」ということを証明することにも繋がるようです。(p.163-164)

アーレントの「権力と暴力」についてもフーコーのそれと比較しようと思ったのですが、時間が足りず割愛させていただきます。

既に日数が近づいてまいりましたが、次の読書会は、9月15日(土)18ー20時にて、6章を読み進めます。 場所:Tetugakuya

参加費:1,000円(飲み物代込み)

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