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12月22日『中動態の世界』9章を読む

最終章となった今回は、『中動態の世界』の読書会の最終日となりました。参加者は9名でした。

 この章は、中動態の検討を通じて行為や意志や責任といった概念を問い直すための最終章です。これらの概念のもつ問題の根深さを再確認するために、本章では一つの物語が紹介されていました。その物語は、アメリカの作家メルヴィルの遺作『ビリー・バッド』です。

 今回の読書会は、このビリーバッドの物語を含めて、プリントを輪読しながら進めました。

 物語の中では、ビリーとクラッガート、艦長ヴィアの「思う様に行動できない」3人3様の姿が描かれていました。

 彼らは、身体・気質、感情・人生、歴史・社会から、完全に切り離されて行為することはできません。私たちもまた彼らと同様にそれらから必ず制約を受けるため、完全な自由ではいられらません。

ビリーとクラッガート、ヴィア艦長は、日常のなかで生きている私たちをも映し出す存在である、とテキストでは指摘しています。私たちは、完全な自由にはなれないのです。

 この章では、この物語についてのアーレントの読解も書かれていました。アーレントの読解は、少し難解に思われ、参加者同士の対話の焦点にもなりました。

 「アーレントは、『ビリー・バッド』がフランス革命に影響を与えた哲学者ルソーや実際の革命の指導者であるロベスピエールらの思想の盲点を鋭くえぐり出す作品であるとして言及する」とあり、徳と善を混同してはならないと語っています。

彼女は、善がビリーであり、悪をクラッガートに、ヴィア艦長の人格を通して表現されているものを「徳」として解釈します。


 私たちは、普段、徳と善を混同して語ることが多いような気がいたします。徳のある人と言うと基本的には善良な人物を指すのではないでしょうか。私たちが持っている徳と善についての考え方とは違う切り口で語るアーレントに、読書会では戸惑いが生じたように思います。

 テキストで述べられているのは、徳が社会通念であり相対的なものであるということと、相対的なものであるがゆえに「永続的な制度」を実現しうるということです。そして、政治という営みを通じて、徳のある社会を築き上げることができるということです。

 一方で、善悪については「人間の社会で通用しうる、そして通用している規範には閉じ込められない過剰さがある」と述べられていました。それゆえに、徳に従って生きる市井の人々に善は理解されない。「絶対的な自然的潔白(p.289)」である善は、悪を排除しようとするときに暴力性を発するので、徳(社会通念)からは罰せられる。物語に再び照らし合わせると、法は、神の天使たるビリーを絞首刑に処さねばならず、根源的な悪はそれをすり抜ける。

けれども他方で、私たち人間は善を求める存在です。繰り返しますが、善は悪徳を批判しながら徳に従って生きる人々には理解されず、善は法によって処罰される要素を持ち、根源的な悪はその法からはすり抜けてしまう。

 このアーレントの主張は、人間存在にとって、とても残酷なものに思えます。実際「つらい気持ちにさせる」ものがあると著者である國分さんも書かれています。

 もちろん、アーレントが徳と善悪を区別しなければならないと考えたのは、相対的で社会通念である徳は「善」や「悪」という絶対性と混同されることによって大変な危険性を持つと考えたからだろうことは分かります。アーレントは、フランス革命の主導者であったロベスピエールが陥った恐怖政治の一因が「徳」と「善」の混同についてあるとみていることもテキストでは述べられていました。また『ビリー・バッド』の物語がフランス革命に影響を与えた思想家たちの盲点を突いていると述べられています。

 「法」と「善」との関係性について、森鴎外の「高瀬舟」の物語などいくつかの例をあげながら、参加者同士お互いに協力して、テキストをより正しく解釈できるよう努めたように思います。

 國分さん(このテキストの著者)は、ビリーたちの物語とアーレントの解釈を元にしながら、「法」が私たちを裁くものとしても実はうまくできていないのではないか、という問題提起をされています。ビリーたちの悲劇は、それぞれが思ったように行為できない(自由になれない)ということに起因しています。そこに加えて、善悪や徳(社会通念)と善を求める存在である私たちの関係性がみてとれるということだったと思います。

さて、私たちは自由にはなれないのでしょうか?國分さんは最後に次のように締めくくっています。

 

 完全に自由になれないということは、完全に強制された状態にも陥らないということである。我々は、中動態を生きており、ときおり、自由に近づき、ときおり、強制に近づく。

 自分がいまどれほど自由でどれほど強制されているかを理解することも難しい。また我々が集団生活で生きていくために絶対に必要とする法なるものも、中動態の世界を前提としていない。(ref.294)

 われわれはおそらく、自分たち自身を思考する際の様式を根本的に改める必要があるだろう。思考様式を改めるというのは容易ではない。しかし不可能でもない。たしかにわれわれは中動態の世界を生きているのだから、少しづつその世界を知ることはできる。そうして、少しずつだが自由に近づいて行くことができる。これが中動態の世界を知ることで得られるわずかな希望である。(p.294)



 『中動態 意志と責任の考古学』読書会の最終回であるこの時間、いつもより多くの沈黙があったように感じられました。「読み終えてみて、自由になれそうに感じられましたか?」という質問をしてみると、参加者の皆さん即答できないようでした。もちろん私個人としても、複雑な想いが残りました。私たちは自分が今自由な状態であるかどうかも、強制された状態にあるかどうかも、ひょっとすると理解できないかもしれない。それでも、それを自問しつつ問い続けるということが大事なのではないかな、というご意見があったように思います。

 本書最後に締めくくられた言葉「わずかな希望」という言葉について、参加者の皆さんがそれぞれどのように感じられたのか明確に知ることはできませんが、何となく「終わったような気がしない」そんな最終回でした。

テキストによって投げかけられた問いかけと「わずかな希望」についての模索は、読み終えた今から始まるのかもしれません。

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