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レポート:3月17日第10回 哲学読書会『中動態の世界 意志と責任の考古学』


3月17日第10回 哲学読書会『中動態の世界 意思と責任の考古学』第1章を終えました。

8名の方が、参加してくださりました。

数人の方が既に読み込んでおられたこともあり、より内容に踏み込んだ議論が行われたと思います。

参加者が質問や疑問を自分なりの言葉で発言しようとする時、別の参加者が、その内容を「つまりこういう意味ですか?」と端的にまとめて確認し、議論を助けようとする様子もありました。

 何とか自分の考えていることを使えたいのだけれども、それをとっさに的確な言葉にまとめることは難しい場合が多いです。それを、別の方が助けて、対話の場を作って行く様子があり、そのことによって質の良い対話の場所が作られたと感じました。

 「能動と受動」の区別についてと、もう一つ「意志」の問題があり、この両者について混乱しがちな様子もありました。丁寧で優しい文体ではありますが、内容はなかなか高度です。しっかりもう一度読み直さないと難しいな、という声も聞かれました。

 また、「私がする」と「私がされた」がよくわからない状況の具体的な例が参加者の中からあげられ、「能動」と「受動」の区分が出来ようできないケースに想像を巡らせる助けとなりました。

 「能動と受動」の区分が、ただ単に社会的要請に従って生じているだけなのではないか。そもそもそのような区分は存在しないのではないか、などという意見もありました。

 今回の読書会では、第1章のみが範囲でしたので、中動態の具体的な内容には触れられておらず、想像で語るしかない場面もありましたが、次回第2章でいよいよ本題に入ることとなりそうです。

 

以下、「そもそも私が何ごとかをなすことができるのか」という問題点に着目して1章をまとめて見ました。

第1章の始め次のように話は始まります。

私が何ごとかをなす。

しかし「私が何ごとかをなす」とはいったいどういうことなのか?

-(略)-

私が何ごとかをなすことの成立要件とは何か?

どうすれば私は何ごとかをなすことができるのか?

いや、問いはもっと遡りうる。

そもそも、私は何ごとかをなすことができるのか。

「そもそも私が何ごとかをなすということができるのか」

この一文は、実に哲学的な問いかけです。

私たちは、いつも「自分が何かを行為している」と当たり前のように思います。

当たり前すぎて、もはや考えもしません。

「私が何かをしている(能動的に)」と言えるのは、「意志を持って自分で遂行している」ということです。そして、私たちは、行為を「意志の実現」だと考える。

「今日のお昼はうどんにする」という時、私は自分の力で自発的にうどんを食べることにしました。誰にも強制されていません。

能動的であるということ自体が、「意志」の存在を強くアピールしているのです。

ところがどっこい、と國分氏は疑問を呈します。

私たちの行為の成立に、「意志」があるようにみえているけど、本当にそうなの?と。

本当にそうなの?というには、2つのポイントがあります。

まず一つ目は、「私が何かをする」という具体的な事例をよく分析して見ると、行為の最初に意志があったとは言い難いということが分かってきます。(p15−19)

そして2つ目、そもそも意志という概念が矛盾に満ちていると、國分氏は述べます。

 意志というのは、誰かに強制されたものではなく、自発的なものでなければならない、と同時に、意志は色々な周りの条件を意識しながら働く力のことでもあります。つまり、周りの様々な条件に影響を受けます。・・・自発的でなければならないのに、影響を受けている。

「私が自分の力で自発的に行為した。なぜなら、私の意志があったから。」とは言っても、実は本人が、気がついていないところで、様々なものから影響された結果、その行為に至っているのではないでしょうか。

 自分が何にも誰にも影響を受けずに自発的に行為したと思い込んでいるだけなのでは?

すると、そもそも「自分が自発的に行為する」なんてこと可能なのでしょうか。

「自由な意志」など、本当は無いんじゃないの?(スピノザの議論へ)

「私が何かをする」(能動的に)ということが可能なのだと思い込んでいるだけで、極めて怪しいことがわかってきました。

「私が何かをする」という文は「能動」と形容される形式の元にあります。

そしてその反対は、「受動」です。

どうやら、「能動・受動」の区別が、こんなに怪しい概念なのにも関わらず、この区別があたかも必然的なものであるかのように、私たちは思考していることに気づかされます。

自分の意志で自由に選択をして行為する、ということが可能だと私たちは考えているから、そこに責任を求めることができます。

責任を負うためには、人は能動的でなければならないし、選択の余地がなく受動的であらざるを得ない人は、責任を負うものとはみなされないのです。

ところが、そもそも、「自由な意志」が怪しい。

「私が何ごとかをなす」ことが本当にできるのかが、怪しい。

「私がそれしているのか・私がそれをさせられてるのか」分からないというようなことが実例として多々あるのではないか。 本書では、この「能動と受動」の私たちの思考の奥深くで作用している区分を再検討するために「能動態と受動態」として文法の側から考察することを試みる。 失われた「中動態」への探索へ向かう。

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